ブックタイトルメカトロニクス4月2021年

ページ
42/52

このページは メカトロニクス4月2021年 の電子ブックに掲載されている42ページの概要です。
秒後に電子ブックの対象ページへ移動します。
「ブックを開く」ボタンをクリックすると今すぐブックを開きます。

概要

メカトロニクス4月2021年

42 MECHATRONICS 2021.4第34回 <話題商品を支えた日本の品質管理/品質保証> 世界が欲しがる「話題商品」を次から次へと開発し、そして供給する技術力を持つことが重要であることは言うまでもない。その製品も品質の安定したものでないと“ヒット商品”でもクレーム品として返却されると大変な損害が発生することになる。 安定した品質を維持するために日本で取り組んだ「品質管理/品質保証」について解説して話題商品を支えたことを紹介する。1. 品質改善の取組み 日本のモノづくりの上で求められたのは安定した品質であった。第二次世界大戦後、通信施設の頻発する故障に対して、連合国軍司令部から改善要求が出されるとともに米国のウエスタンエレクトリック社のMr.H.M.Sarasohnが日本の通信機器メーカーに対して統計的品質管理(SQC=StatisticalQuality Control)の指導を実施した。戦後間もない1946 年のことである。 そして日本科学技術連盟(日科技連)が同年に設立され、SQCに関する研究グループが発足して普及活動を実施するとともにトヨタなどが採用して実施するようになる。この頃は、米国側から見ると日本の製品は「安かろう 悪かろう」という粗悪品の代名詞のように言われ、多くの日本企業は製品の品質向上が課題であった。 1950年6月に始まった朝鮮戦争の勃発で米軍からの特需で日本の産業界は米軍がMIL規格で指定する品質を守る必要があり、真剣に品質管理を取り組むことになる。 1950 年7月に米国からデミング(Deming)博士を日科技連が招聘し、品質管理の基本について講義して貰い、品質向上に向けて取り組みが始まる。博士の名前にちなんで「デミング賞」も創設している(写真1)。そして第1回品質管理大会を1951年9月に大阪で挙行し、同時に第1 回デミング賞受特定非営利活動法人 日本環境技術推進機構 青木 正光賞式を開催している。 品質改善強化のために1950 年に日科技連が「品質管理」の雑誌を創刊し、さらに1962年になると現場向けに「現場とQC」が発刊され、教材として活用されるようなる。 この頃は米国などに訪問して品質改善に役立つと思われる手法を日本に持ち帰り、トヨタやNECなどが採用して日本で実施されるようになった。「創意工夫提案制度」、「全社的品質管理」、「Zero Defect運動」などは1950~1960年代に取り入れられて、これらはその後、日科技連や日本能率協会などの普及活動も手伝って全国の企業に普及していった(写真2)。2) なお、1949年には工業標準化法が制定され、標準化にも力を入れ、工業標準化法によるJIS 表示制度は日本のモノづくりにおいて品質管理の普及に果たした役割は大きく、多くの企業がJIS 認定工場を取得し、安定した品質を維持するのに貢献した。 認定工場を取得するには、品質管理の状況なども審査の対象となり、品質管理のレベルアップに寄与した。 日本の品質改善の取り組み状況を年度別に体系化すると表1 のようになる。地道な努力の経緯が理解できるかと思う。2. 工場での取り組み 日本の工場では、どこでも見受けられる事例として次のようなことがある。先ず、工場玄関付近には、旗を掲揚できる施設があり、安全マークの旗が掲揚されるが11月の品質月間では、QCの旗を掲揚して「品質月間」を盛り上げている(写真3)。 さらに工場の現場に行くと例えば企業によっては「高い品質と良いサービスで応える」と言ったスローガンが張り出されているとともに工程の稼働状況や品質データのグラフが掲示され、さらに小集団活動の目標、進捗状況、前期の成果、表彰状などが写真とともに張り出されている。これらを見るだけで、その工場での品質に対する取り組みが分かる状態となる。企業によっては、クリーンルームに入る前の通路の両側の壁一面に様々なデータを張り出して「見える化」を実施している例もある。 中小企業においても供給先の大手企業の支援を得て品質管理手法などを学習するとともに年2度、定例で開催する品質管理報告会には供給先の関係者を招待して報告会の講評を実施して貰ってその都度、品質改善に努めている例もあり、供給者- 顧客が一体となって品質改善を実施している例がある。 日本の製品が「安かろう悪かろう」と言われた時代から日本の製品は品質が安定していると評価を得られるようになっていき、日本製品は世界に冠たる製品の位置付けとなった。背景には品質に対するたゆまない努力の結果と思われる。その象徴的な出来事として1980 年3 月25日に米国・ワシントンで開催された品質管理に関する半導体セミナー(Quality Control: Japan’s Key to HighProductivity)であった。 ヒューレッドパッカード(HP)社のRichardAnderson 氏により16K DRAM の日米6 社の品質データ比較が発表された。これはHP社で前年に米国製DRAMの供給が間に合わず日本製DRAMを購入した時の評価結果であった。この報告は従来の日本製半導体に対する安物としての評価を一変させ、日本製DRAMが米国ユーザに受け入れられる契機となった。特にこの時期のDRAMの主要な用途であったメインフレームコンピュータでは高い品質管理が要求されており、このニーズに日本製DRAM の品質の高さが受入れられた。 受入れ時の半導体の不良率は米国3 社が0.11~0.19%もあり、日本3社が0%であった。 日本の半導体は米国の半導体と比較して不良率が1/10 以下であることを示している。逆の言い方をすれば「米国製の半導体は日本製と比べて10倍以上も悪い」ということにもなる(写真4)。 1980年代の米国は、日本やドイツに比べて品質が大きく劣り、競争力が低下した状況で、この結果は大きなインパクトを与え、NBC放送が「日本に出来て何故米国に出来ないか」(“If Japan can… Whycan’t We?”)との番組を報道することになった。 日本では1950年頃から米国の良き事例・手法を参考にして「デミング賞」まで創設して取組んだ品質管理の結果が、30年後に一つの形として結実した。日本で取り組んだ品質改善の成果である。 この結果は、日本の品質管理が世界市場を制覇する原動力となったことが世界から認められ、日本に学べへの大合唱にまで発展した。3)3. 米国の取り組み 米国ではNBCの特集番組をきっかけに、1985年のレーガン政権設立の「産業競争力委員会」でHP社のヤング会長がまとめた「ヤングレポート」、マサチューセッツ工科大学・産業生産性委員会が10年の研究の上、1989年に発表された「メイドインアメリカ?復活への提言」など米国の問題点や根本原因を深く追求する研究が実施された。 同じ頃、レーガン政権が力を入れていた戦略防衛構想では、米国以外の製品を使わなければ実現で◆ コラム 明治大学政治経済学部教授であったマーク・ピータセン著の「日本人の英語」の説明の中で、「Made inJapan」の項での解説では、次のような説明文がある。氏が8歳の時のことで前書きから書けば理解を深めることが出来ると思うが長くなるので省略してポイントのみを記述すると次のようなくだりがある。 「アメリカでは、『メイド・イン・ジャパン』といったら、笑うほど安価で、見かけ倒しの品という意味になり、小中学生の流行語であった」という。1954 年当時は日本製品の品質に対してのイメージは悪く、世界の粗悪品の代名詞でもあった。1)