ブックタイトルメカトロニクス2月号2021年

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概要

メカトロニクス2月号2021年

MECHATRONICS 2021.2 43日本の産業構造の変化にともなう電子機器分野の話題商品を追う???????? ??????????????????????に????????????????????限する日米政府の間で米国向け輸出を3 年間自主規制することが決まった。これを契機に日本のテレビメーカーの米国での現地生産が本格化し、輸出は激減したため、対米自主規制は3 年で終了した。 この間、1960 年代初頭には20 社以上あった米国メーカーはカラーテレビの分野から撤退するか消滅していった。最後まで残ったゼニス社も韓国メーカーに買収された。 また、1978 年になると工作機械についても摩擦が生じ、1981 年に工作機械の最低価格規制、1987年になると工作機械の自主規制へとなり、1980年代になると自動車摩擦とともに日米貿易摩擦の激化は極限まで達した。???? ?????????? 米国の自動車産業は世界を席巻し、永らく市場を支配し続け、米国の象徴とも言えるのが自動車であり、ゼネラル・モーターズ、フォード、クライスラーはビックスリーと称された。 米国の自動車市場は、大型車が中心であったが日本や西欧からの小型乗用車の対米輸出は1960 年頃から増加し始めた。 1973年第1次石油ショック以降のガソリン価格の上昇が米国の消費者の小型車志向を促し、1979 年の第2 次石油ショックで、その傾向が決定的にした。日本車は米国車よりも燃費性能がよく、価格が安いことも人気の的となった。 米国市場に輸入車が増加するとビッグスリーに対して大きな打撃となり、各社はレイオフを余儀なくされ、クライスラーは倒産の危機に瀕する。そして自動車製造の労働者の対日感情が悪化し、日本車をハンマーで叩き壊すデモンストレーションが行われるまでになった。1980年の米国の自動車産業労働者の失業率は30%に達するほどひどくなっていた。 それに耐え兼ねた米国のメーカーと全米自動車労働組合は国際貿易委員会に輸入規制を訴えた。しかし、その訴えは認められなかったため、アメリカ政府に残された最後の手段は、日本が自ら輸出を制限するということであった。日本はアメリカからの強い圧力を受けて自主規制を行わざるを得なかった。 これが1981年からは自動車でも対米輸出自主規制が行われるようになった背景である。この自主規制を当初の3 年間という期限を超えて継続し、1994 年3 月に撤廃されるまでの13 年間も続けた。米国の自動車産業は、競争力回復のための時間が与えられた。???? ?????????? 1970年代に入ると米国半導体メーカーは半導体製造工程の後工程の組み立て工程のコストを低減させるために労働力の安い東南アジアやメキシコに移転するようになった。 これに対して日本で行われたのは組み立て工程の自動化であった。1970 年前半までは日本メーカーの半導体工場の組み立てラインは比較的安い賃金の女性たちで占められていた。当時はトランジスタを生産していたのでラインにいた女性はトランジスタガールともいわれていた。 多くの女性がラインにいたので“CrowdedIndustry”と称されていた。これが、1970 年代中頃から1980 年頃までに大きく様変わりした。“Vacant Industry” への取り組みとして半導体製造が手工業から自動化されて装置産業へと変貌していくのである。組み立て工程から女性の姿は消え去り、そこには自動組み立て装置が並べられ、それを操作しているのは殆どが男性に切り替わっていった。 この自動化はシリコンウエハ上に回路を形成する工程、所謂、半導体製造工程の前工程でも図られることになり、女性労働者は半導体製造工程から大幅に減少し、自動製造工程へと置き換えられた。 日本メーカーは技術進歩と価格低下が激しい民生品の業界で勝ち残るために、製造技術開発や設備投資に莫大な資本を投資することで自動化を可能にした。 これらの製造技術の改革を成し得たのは日本メーカーが大手の総合電機メーカーであり、資金調達力や製造技術力、販売力などの基礎体力が大きかったことによる。自動化によって製品の大量生産が可能となり、低コスト化が達成できるばかりではなく、製造の均一化が図られることで、個々の製品間の製造ばらつきは低減され、品質が大幅に向上した。 この自動化を中心とした製造技術の改革によって、米国と日本の半導体製品の品質、価格に大幅な差が生まれた。 1980 年5 月ワシントンでのセミナーでHP 社Richard Andersonにより16KDRAM の日米6社の品質データ比較が発表され、日本製DRAMの品質の高さが明らかにされた。 日米半導体貿易収支は1980 年前後で逆転し、世界半導体販売ランキングの上位を日本メーカーが占めるようになり、貿易摩擦は激化していった。 1980年代半ばに本格化する貿易摩擦交渉では、この日本市場開放の要求を達成するための圧力は日本からの半導体製品の輸入規制だけではなく、日本製半導体製品を搭載した電化製品の輸入規制へとターゲットが絞られていくことになる。 1985年6月、米国半導体工業会が 「日本の半導体メーカーが不当に廉価販売している」として、日本製半導体をダンピング違反として米通商代表部(USTR)に提訴した。 対日貿易赤字が拡大して米国企業の業績が悪化する中、米国が狙いを定めたのが半導体だった。日米政府は1年間の交渉の末、1986 年9月に「日米半導体協定」を締結した。2)???? ???????????????????????????? 以上、5つの品目についての主に日米間の貿易摩擦に関して解説したが、これらの貿易摩擦を解消するために検討された内容と経緯を体系化すると表1のようになる。3) 以上、過去の主な貿易摩擦について紹介したが、通商交渉には5 品目のみならず農産物やアルコール飲料などにも及び幅広く実施されていることを付記して解説を終わりたい。 いずれにしても海外市場で受け入れられる良い製品が作れたからこそ摩擦まで起きたと思う。??????資料??1. 昔の装い http://blog.livedoor.jp/mukashi_no/?p=282. 奥山幸祐、“ 半導体の歴史”  <その28 20 世紀後半 超LSIへの道>  SEAJ Journal No. 142 pp43~pp50(2013)3. 田村賢司、“経済摩擦と企業の競争力”日経ビジネス(2016)https://business.nikkei.com/atcl/  report/16/011900002/012700008/?P=3日 時項 目内 容1957 年1月綿製品輸出自主規制1950年代半ばから日本の安い綿製品の米国への輸出が急増。ワンダラーブラウス問題となり、1957年に日本は綿製品の輸出自主規制を米国に対して実施することを余儀なくされた。1960 年日本のテレビメーカーへのダンピング提訴米電子工業会(EIA)が、日本のテレビメーカーにダンピング提訴を行った。日本からの米国へのテレビ輸出は1956 年に始まったばかりだった。1969 年1月鉄鋼輸出自主規制協定米国への日欧からの鉄鋼製品輸出で、米国の鉄鋼産業が苦況に。日本は輸出自主規制協定を締結。1969年には輸出を前年比22%減らした。米国鉄鋼産業の競争力低下が背景にあった。1968 年3月テレビダンピング提訴EIAは再度、日本製のテレビに対するダンピング提訴を実施。1969 年7月ニクソン・米大統領、繊維輸出自主規制提案リチャード・ニクソン氏は1968 年の大統領選で、民主党の牙城の南部を狙い、同地域の主要産業の繊維を保護するために日本からの輸出制限を公約に掲げた。1969年7月には日米経済合同委員会で日本に繊維製品の輸出自主規制を提案。1971 年7月ニクソン・ショック金とドルの交換を停止。1 ドル360 円の固定相場終焉。1976 年米鉄鋼産業、対日ダンピング提訴日本からの輸出に対し、米鉄鋼産業はダンピング提訴した。1977 年7月カラーテレビの市場秩序維持協定締結日米間で、カラーテレビに対して、市場秩序維持協定を締結。対米輸出台数を175 万台に制限。1978 年3月最低価格規制工作機械の最低価格規制導入。1980 年9月レーガン米大統領候補、自動車救済を訴え大統領選でロナルド・レーガン氏が自動車産業救済を公約。日本製小型車の輸入制限への動きなどが進み始めた。1981 年2月VTR の数量規制VTR の輸入数量規制導入(オーストリア)。1984 年5月円ドル委員会本格化日米の本質的な問題は金融だとして議論を開始。大口預金金利の自由化、外貨の円転換規制の撤廃、外国銀行の信託業務進出などを合意内容とした報告書が公表された。1985 年9月プラザ合意ドル高是正で主要国が協調介入。円高に転じた。1985 年1月市場重視型個別協議(MOSS)開始エレクトロニクス、通信、医薬、林産物などの日本市場へのアクセスについての障害を取り除く協議を始めた。1986 年12月半導体売上高ランキングで日本勢圧勝日本製半導体の絶頂期。半導体売上高ランキングで、上位10社中5社が日本に。1986 年9月日米半導体協定締結日本市場への外国製半導体市場への参入や、半導体の価格制限など厳しい要求を突きつけた。1987 年1月工作機械の輸出自主規制工作機械の輸出自主規制導入。1989 年9月日米構造協議日米貿易不均衡の是正を目的として1989 年から90 年までの間、計5回開催して多国間協議を行った。1994 年保険協議開始貿易インバランスの改善策として保険業界も検討開始。????????????????????????????????????