ブックタイトル実装技術1月号2017年特別編集版

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概要

実装技術1月号2017年特別編集版

267東海道の旅江戸の日本橋から京の三条大橋までを結ぶ「東海道」は、日本の大動脈として知られる道で、徳川家康によって「東海道」、「日光街道」(江戸から日光)、「奥州街道」(宇都宮から白河)、「中山道」(下諏訪から草津)、「甲州街道」(江戸から下諏訪)の五街道を整備したうちのひとつである。 街道沿いには宿場や4kmごとの一里塚、常夜灯などが整備された。道中の移動には徒歩が基本で、1日に33~41km歩いたと言う。今では考えられない距離を歩いたことになる。 宿場には旅籠を設けられ、そこに泊まって、翌日、また歩くといった方式で、伊勢神宮を代表とする社寺への参詣が主な旅の形態であったという。 参詣が流行したのは、当時、滑稽本の『東海道中膝栗毛』やガイド本の『東海道名所図会』、錦絵などが出版されたことによって拍車がかかったようだ。 さらに御師という宗教者が布教活動やお札を配りながら旅の楽しさや各地の珍しい話しなどを人々に語って紹介したことも手伝って、旅が拡がっていった。庶民を含めて旅は大きな楽しみのひとつであったと思う。 当時、江戸時代の人々は、旅は一世一代の行事であり、旅立ちには、近所の人からも餞別を貰っていたと言う。死に別れになるかもしれないとして餞別をおくったようである。そして旅から帰ってきた時には、訪れた場所のお土産を持ち帰ってお礼に配った。 旅に出るには、荷物をしばるための麻綱、薬、火打ち道具、合羽、糒などの非常食、扇子、糸針、ろうそく、提灯、櫛、日記手帳などを持参して歩いた。上質な宿で1泊2食付きで200文(現在の貨幣価値で2,000~3,000円)で泊まれ、薪代を払えば素泊りで宿泊できる木賃宿もあった。 東海道の宿場は、30宿余であったが、その後、増えて53宿となった。これが東海道五十三次の言われとなっている。 江戸を中心にすると鎌倉・江の島・大山・富士山・成田山・日光・榛名山・善光寺などが旅行先として選ばれた。幕府は1648年に伊勢や大山に参詣に行く旅人が贅沢な身なりをすることを禁じた。 また、宿場には人や物資輸送のために一定数人の人馬を用意しておくことが義務付けられた。五街道中東海道が最も多く、100人・100疋の人馬を常備していた。東海道には箱根と新居の2カ所に関所が設けられ、旅人は、身分証明となる"往来手形"と関所を通過する"関所手形"が必要で、携帯することが必要であった。 箱根の関所は1619年に設けられ、監視の対象は、「入り鉄砲と出女」であった。"入り鉄砲"は江戸に鉄砲が持ち込まれることを言い、搬入されないように厳重に監視した。"出女"は江戸から出て行こうとする大名の妻などを指した。江戸を守るための措置であったようだ。 伊勢参宮は多くの費用と日数がかかり、ひたすら伊勢を目指すのではなく、各地の神社や名所を巡りながら伊勢に向かったという。 江戸を早朝の4時頃たち、保土ヶ谷宿で最初の宿泊地となり、「東海道中膝栗毛」の主人公・弥次さん喜多さんが一泊した宿場町の戸塚辺りから鎌倉・江の島へ行き、藤沢宿で再び東海道に戻り、それから大山や富士山など登ることもあった。このように寄り道をしながら伊勢を目指した。そんな関係で、伊勢参宮には2~3カ月も要する旅であった。旅の中で、江戸を発って最初の難所が保土ヶ谷宿の先の「権田坂」であったと言う。急勾配の登りが続き、登りきれずに命を落としてしまう旅人もいたと言う。今は、簡単に通り抜ける道になっているが、昔は厳しい場所であったに違いない。 天下の嶮とうたわれた箱根の山越えは1日ががりとなり、小田原宿で宿泊し、早朝に出発するのが一般的だった。山道と関所が待ち受ける難所が、「箱根山」であった。徒歩では厳しいため駕籠で越える旅人も多かったと言う。 歌川広重の代表作『東海道五十三次』の箱根を描いた一枚は、そそり立つ箱根山を描きだし、参勤交代の一行が山道を登る様子は、いかにも厳しい箱根山越えかが分かる見事な筆致の絵だ。 また、当時は軍事上の理由で、例えば酒匂川や大井川には架橋されていなかったのと日本の河川は流れが急で、増水により橋がしばしば流失してしまい、そのため川越しが必要であった。人足にお金を払って人足の肩や蓮台に乗って川を渡る必要があった。 豪雨により増水した場合には、川留となり、数日間の足止めを余儀なくされ、旅人は余分な支出となることもあったと言う。 大井川は江戸時代中頃になると幕府は架橋を計画するが、島田・金谷の川越え関係者等の反対により中止されている。架橋したことにより失業するのを恐れたためである。このようにいろいろな難所を切り抜けながら日本橋から京までは、126.5里(=496.8km)もあり、江戸から京都まで12~15日で歩いた(1日33~41km)という。ちなみに飛脚は江戸~大坂間を「並」で8日~1カ月、「速達」で 6日、幕府御用達の継飛脚は2人で1日160~200kmも走り、最短の場合には3日で運んだという。 街道筋には様々な名物が創り出され、旅人を楽しませた。小田原の外郎、箱根の甘酒、安倍川の安倍川餅、丸子のとろろ汁、宇津の谷峠の十団子、瀬戸の染飯、小夜の中山の水飴、日坂の蕨餅、桑名の蛤、草津の姥が餅など実に多くの名物が登場した。旅人の楽しみのひとつであったに違いない。 江戸時代は空前の旅行ブームだった。1766年に『伊勢参宮細見大全』、1797年に『七ざい所巡道道志るべく旅行便覧』、『伊勢参宮名所図会』に続き、1810年に発行された旅行を安全に楽しむための指南書として『旅行用心集』なるものがあった。今でいう『地球の歩き方』である。その後、『諸国細見大増補道中独案内図』、『江戸道中勝景行程記』、『五海道中細記』なども刊行されている。 このようにして東海道を徒歩で、寄り道をしながら楽しんだのである。13日もかかっていた江戸から京の東海道は、今や、新幹線の「のぞみ」を使えば2時間15分程度で行ってしまう。 車窓から風景を見てもあまりにも速いし、停車したホームで窓を開けて駅弁を買うこともできず、なんの風情もなく無味乾燥な旅になってしまったようだ。 リニア新幹線が開通すればさらに時間は短縮される。江戸時代の旅人が、こんな時代になることを想像もしなかったと思う。51