ブックタイトルメカトロニクス6月号2019年

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概要

メカトロニクス6月号2019年

44 MECHATRONICS 2019.6   日本の産業構造の変化にともなう電子機器分野の話題商品を追う第12回 <日本プリント回路工業会の設立>連 載 電子回路基板は、電子機器の設計段階において、最後に設計仕様が決定し、製造段階において、最初に必要となる重要な部品の一つである。電子機器にとって基幹部品とも言われるプリント配線板は、1950年代に誤配線を防ぐ方式の配線として、当時は「印刷配線板」の名前で登場したことを前回、紹介した。1962 年頃になると「印刷配線板」を生産する企業が増え、銘光工業、朝日プリント、東京プリント工業などの3 社が中心となって同業者に呼びかけて工業会を設立する話しが出た。今回は、この工業会の設立に至ったことから、さらにその後の進展状況について紹介しよう。1. 工業会設立前の業界状況 1950 年頃になると輸入銅箔を使って国内で銅張積層板を製造するようになった。当時は紙フェノール銅張積層板で接着剤付き銅箔を輸入して生産し始めた。 東京芝浦電気(現 東芝)は、1953 年に東京通信工業向けに銅張積層板を納入していることからラジオ関係の用途と考えられる。また、同社は、1954年にトランジスタを使用してラジオを制作して防衛庁に納入している。1)このラジオに印刷回路板を使用していたかどうかは残念ながら確認できてはいないものの、米国ではRegencyから1954年に発売された世界初のトランジスタ・ラジオには「印刷配線板」が使用されていた。 1955 年には東京通信工業からトランジスタ・ラジオが販売されるようになり、印刷回路板(プリント配線板)が注目されるようになった。 丁度その頃、米国の国務省の海外協力会(ICA)から、旅費・宿泊費などを負担してくれる米国電子工業視察の話しが舞い込み、中小メーカーから12 名を人選することが日本生産性本部を通じて依頼があったという。2) 片岡電気(現アルプス電気)の片岡勝太郎氏、パイオニアの松本望氏、谷川電機製作所の都築武一氏、田村電機製作所の田村邦夫氏、高見沢電機製作所の高見沢敏夫氏、山光社の横山又蔵氏、老川工藝社の老川正次郎氏、富士製作所の佐藤俊氏、理研電具製造の島宗昭次氏、小林電機製作所の小林稔氏、国洋電機工業の上野寛氏、三岡電機製作所の岡上新太郎氏、の12 名が選ばれ、1957 年5月14日に米国電子工業視察団一行がノースウエストのプロペラ機“ダグラスDC7”で出発し、アンカレッジ経由バンクーバーで給油してシアトルに到着した。 視察団の滞米日数は52日間という長期間に渡るものであった。同時通訳もできる村松増美さんと神戸商科大学助教授の大塚俊郎さんが同行し、通訳特定非営利活動法人 日本環境技術推進機構 青木 正光して貰えたのでなんら問題がなかったという。 色んな会社を訪問するとともにシカゴの「電子パーツショー」も見学している。東京で1958 年から「ラジオ・テレビ・パーツショー」が開催されるようになったのは、実は、この時の米国視察団の視察結果が結びついたものであったという。3)そしてラジオのキャビネットを生産していた老川工藝社の老川社長が米国から「プリント配線板」を持ち帰った。 ラジオ用目盛り板を老川工藝社に納入していた東京プリント工業の荒井貞雄氏が、老川社長から「プリント配線板」を見せて貰い、エッチング加工したものと分かり、東京プリント工業はエッチング技術を保有していたのでプリント配線板を作ることを思いついたと言う。 ソニーがプリント配線板用材料を輸入していることが判明し、荒井氏はそれを使ってプリント配線板を作るようになり、光洋電子工業に最初に納入した。4 石トランジスタラジオに使用され、このラジオは輸出されたという。 銘板屋(ネームプレート)と言われる会社はエッチング技術を保有していたため、銘板屋がプリント配線板を製造するようになった。家電時代が始まり、プリント配線板の需要は伸びる一方であり、梅田ネームプレート製作所、横田ネームプレート製作所、中央銘板などがプリント配線板事業を開始するようになった。2. 日本プリント回路工業会設立 工業会の設立に関しては、東京プリント工業の荒井貞雄氏がまとめた「晩愁」に詳細が記載されているので一部を引用して紹介しよう。4) 1962年頃になるとプリント配線板の同業者も増え、東京プリント工業の荒井社長が出先で、銘光工業の倉島社長、朝日プリントの佐藤社長と挨拶を交わすうちに、同業者に呼びかけて工業会を設立しようとの話しがまとまり、同業者に呼びかけたところ、38 社が賛同してくれたという。 そして1962 年6 月16日に38 社が杉並法人会館に集まり、日本プリント回路工業会の創立総会(写真1)を開催し、その第一歩を踏み出した。 初代会長に銘光工業社長の倉島五郎氏が就任し、副会長には朝日プリント工業社長の佐藤佐寿氏、会計理事に東京プリント工業社長の荒井貞雄氏が、それぞれ就任して活動を開始した。 理事会で工業会の名称を決める審議に入り、理事から多くの提案が出されたが、検討の結果、「日本プリント回路工業会」で一致し、決定したという。「日本印刷配線板工業会」ではなく、「日本プリント回路工業会」の名称を採択している。その後、2005 年に工業会名称を「日本電子回路工業会」に変更しており、事務局は西荻窪にあり、建物は地下2 階、地上4 階建ての自前ビルで「回路会館」と称している。 1950年代は「印刷配線板」の用語が使用されていたが、1960年代になると「プリント配線板」や「プリント回路板」の用語が使用されるようになったのは、この工業会の名称が少なからず影響しているかも知れない。 役員と会の名称も決まりスタートしたが、倉島会長の体調が思わしくないので一年で辞任し、副会長の佐藤社長が2 代目の会長に就任した。ところが2年経過しても工業会の活動が親睦会だけで会員に何の恩恵も無いということで、理事会を開催しても出席者が減少している状況の中で幸運な出会いがあったという。それは東京プリント工業を取材に来た「実業往来」という出版社の相蘇社長と後の工業会の事務局長、専務理事になった村上常樹氏であった。 目的は東京プリント工業の荒井貞雄社長と女優の山東昭子さんとの対談を掲載したいということであった。相蘇社長との話の中で「このままでは折角の設立した工業会は消滅しそうで心配している」と話したところ、「君が会長になるなら通産省との交渉事は応援するよ」「中小企業の税制の思恵を受けられるように応援するよ」と言われたが、「荒井貞雄氏が会長になり、工業会を発展し業界を繁栄するには会長の補佐役が必要なので、村上氏を事務局長に迎えたいので貸してください」とお願いしたところ、了解してくれたという。 荒井貞雄氏は会長になって、業界の繁栄のために一肌脱ぐ決意をして理事会で考えを提案したところ、選挙で荒井貞雄氏が会長に選ばれた。荒井貞雄氏は、村上氏を事務局長に迎えたいと提案して、承認され、就任してもらったという経緯がある。 ところが、その後、こんなことがあった。荒井会長と村上事務局長と二人で通産省重工業局電子工業課に挨拶に行ったところ、「事務局のない工業会では困る」と言われ、先ず事務局の設置をするように言われた。しかし工業会には資金がないので、荒井写真1 日本プリント回路工業会の創立総会(プリント回路ジャーナル提供)