ブックタイトルメカトロニクス4月号2019年

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概要

メカトロニクス4月号2019年

44 MECHATRONICS 2019.4写真1 Laox 写真2 高架下のラジオセンター 写真3 ラジオ会館 写真5 Yodobashi-Akiba写真4 郊外型量販店「ヤマダ電機」横浜泉店   日本の産業構造の変化にともなう電子機器分野の話題商品を追う第10回 <話題商品を購入する場所は?>連 載 電気製品の発売が公表されるとその商品に話題性があると発売日には行列が出来る程、人が並ぶことがある。特にパソコンやゲーム機の新機種やソフトが発売される時には、前日から並ぶことが多かった。今のような情報化時代でなかった時には、話題商品を購入するには、町の電気店で購入する場合もあるが、決まって訪問した場所がある。それは関東では、「秋葉原」である。「秋葉原」は電気街として今や、広く世界に知られている。この電気街はどのような形態で出来上がったかと思って調べてみた。今回は、電気街の誕生物語を紹介する。1. 電気街の誕生 昭和の初期、電気材料商の山際電気商会(現 ヤマギワ)、廣瀬商会(現 廣瀬無線電機)、高岡正義商店(白山無線電機)(現 クラリオン)が秋葉原の近くに出店したことがルーツで、徐々に買い付け先が集まってきてから発展したらしい。 1890年(明治23年)に上野から鉄道(現在の東北本線)が延長されて、秋葉原に新しい貨物駅が開設され、駅名は「秋葉原(あきはばら)」と名付けられた。それまでは、「アキバハラ」や「アキバッパラ」と呼ばれていた。「あきはばら」の名前が一般化し、全国的には「あきはばら」という読み方が定着していった。 秋葉原には青果市場もあり、1970 年代まで秋葉原駅には貨物駅が存在しており、かつて秋葉原は流通の一大拠点でもあり、第二次世界大戦(太平洋戦争)以前は、江戸時代~昭和にかけて物資の集散地としての重要な役割を果たした場所であった。 この秋葉原も、太平洋戦争の東京大空襲で影も形もなくなった。終戦直後からバラックで商売する様々な露店が商店街の焼け跡や駅前の公有地、さらには一般の公道上に広がった。 露店にはラジオの部品商も現れ、須田町から小川町にかけて露店で真空管などを扱っていた。露天商の一人が電気工業専門学校(現 東京電機大学)の学生目当てに中古の真空管を並べて販売するようになったら評判を呼び、ほかの露天商も真空管や部品を扱うようになり、ここに露店の電器街が形成特定非営利活動法人 日本環境技術推進機構 青木 正光されたという。戦後の動乱時期に全露店約120軒の内、50軒は電子部品関連の露店があったといわれる。これらの露店は戦後の復興の活力を与えたに違いない。そして、1949 年のGHQ(連合国軍総司令部)の露店撤廃令によって、23 区内の公道上の露店は1 年以内に撤去する必要性に迫られた。そして、秋葉原の露店は秋葉原駅近くの高架(ガード)下にまとめられ、高架下に収容されたことが秋葉原電気街の始まりといわれている。 志村無線、谷口商店(朝日無線)(現 ラオックス)(写真1)、ミナミ無線、鳥居電業など、戦前は他地区で開業していた店も秋葉原に移転してきた。また、石丸電気、角田無線、サトウムセン、ロケット、九十九電機、中浦電機なども秋葉原に進出してきた。いくつかの業者が集まって土地を確保して、ラジオガァデン、ラジオセンター(写真2)、ラジオデパート、ラジオストアなどの共同店舗で営業活動を開始し、表1に示すように1950 年以降、徐々に秋葉原の骨格が出来てくる。1) 秋葉原ラジオ会館が開業したのは1953 年で、当初は木造2 階建てで、1 階に真空管や部品などを扱うテナントが入っていたという(写真3)。 また、戦後、外貨を稼いだのは米国へのラジオの輸出によるもので、ラジオを製造する会社は約200社もあったと言われる。米国市場に入り込めたのも米ソが軍事に力をいれ、民生関係には手が回らなかったのが幸いして、日本はラジオを商品化して米国市場に入り込めた。 ラジオの組立てに必要な真空管などの部品が秋葉原の電気商で扱われ販売されるようになった。当時は、“ラジオ”に関係していると別名、“ 無線”とも言っていたようで、そのため店の名前に“無線”を付けている会社名が多い。当時、ラジオを販売していた会社である。その後、秋葉原は「家電製品なら何でもそろう」、「家電製品が安い」とのキャッチフレーズで発展していった。2. 家電量販店の誕生 この頃は家電メーカーから商品を大量に仕入れ、大量に販売するいわゆる量販モデルを構築していくことになる。家電メーカーから大量に仕入れることにより価格を下げ、販売数を大きくすることで利益をとるというビジネスモデルは、秋葉原で始まった。 そんな関係もあって家電製品を安く購入する場合には、先ずは秋葉原に足を運んだ。筆者も関東に住むようになってから必ず「秋葉原」まで行って、新製品の価格を店ごとに調べ、一番安い電気店で購入した経験がある。ビルの中に所狭しと軒を並べている部品商は、まさに秋葉原を象徴しており、秋葉原に行けば、電気製品に関するものは、組立に必要なはんだゴテ、ドライバー等の工具を含めて、ほぼ、なんでも手に入る所でもある。 一方、大手電気メーカーは家電製品が販売するために、系列の販社や販売店が存在していた。例えば、東芝の例では東芝商事が販売を専門に扱っていた。 当時は、大手の寡占状態であったものの世の中の流れが変わり、系列店は競争力を失う形となり、1970 年代後半ごろより、関東の「秋葉原」、関西の「日本橋」を本拠地とする家電量販店が台頭し始めた。大規模な店構えと品揃えを武器に価格の安さで支持されて急成長を遂げ、「秋葉原」は安く購入できる家電量販店の集積地のようになり、発展をしていった。入社間もない頃に貯金して高性能小型ラジオは、やはり秋葉原で購入した。3.「パソコン発祥の地」のラジオ会館 秋葉原駅前近くに建てられた秋葉原ラジオ会館の南側に1962 年に8 階建ての高層ビルが建てられた。当時では、秋葉原電気街初の「高層ビル」であった。そして1972 年には会館自体を建て替え、南側のビルと合体して8 階建ての「秋葉原ラジオ会館本館」が完成した。これが長らく「ラジ館」として広く親しまれてきたビルである。当初は無線やラジオの部品を扱う店が大半を占めていた。 このような状況の中で転機が訪れたのは1976年である。NECがマイクロコンピュータ(マイコン)普及の拠点として「ビットイン」をラジオ会館7 階に開いたことだった。