ブックタイトルメカトロニクス8月号2018年

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概要

メカトロニクス8月号2018年

44 MECHATRONICS 2018.8   日本の産業構造の変化にともなう電子機器分野の話題商品を追う第2回 <明治時代以降の変遷>連 載 前回は江戸時代について紹介し、話題商品として「弓曳童子」、「茶運び人形」、「文字書き人形」などの"からくり人形”であった。今回は、明治以降の時代変化について紹介する。1. 明治以降の産業の変遷 200年以上続いた江戸幕府が崩壊し、1868 年に明治維新が起こり、「江戸」を「東京」と改称した。 1868年の明治維新を経て、政府は欧米諸国に追いつくための環境整備として教育制度の確立と官営工場の設立であった。1-1 教育制度確立と官営工場設立 1871 年に実施した廃藩置県によって中央集権化を実施し、1873 年に士農工商制度の解体、地租改正による政府収入の確保、内務省設置による殖産興業政策の推進等と多岐にわたり、鎖国から開国の新しい時代の要請に合わせて、国の仕組みも改革するものであった。 さらに教育面では、1873 年に学制を公布し、近代教育制度を構築するとともに、その後、1879 年に教育令で義務教育が最低16ヵ月(毎年4ヵ月以上を4年間)、1886 年に小学校令で4年、そして1907 年には改正小学校令で6年と定められ義務教育となる。 このように日本で欧米諸国の産業革命の成果を導入するための条件を急速に整えたといえよう。 殖産興業政策は、1870 年に設置された工部省および内務省を中心に進められた。富国強兵は軍事工業に重点が置かれ、旧幕府直営鉱山であった佐渡や生野鉱山の官営化や横須賀などで官営の軍事工場の経営が進められた。 また、官営の模範工場として設立されたものとして、1872 年に設立された富岡製糸場や1877 年に設立された新町紡績所などが挙げられる。 富岡製糸場は、長い間生産量が限られていた生糸の大量生産を実現した「技術革新」と、世界と日本との間の「技術交流」を主題とした近代の絹産業に関する遺産で、日本が開発した生糸の大量生産技術は、かつて一部の特権階級のものであった絹を世界中の人々に広め、その生活や文化をさらに豊かなものに変えたということで「富岡製糸場と絹産業遺産群」として世界遺産に登録された。 官営工場として設立されたのは、当時生糸が輸出の中心的存在だったためで、生糸の生産に力を入れていたことによるものである。 1890 年代に、繊維産業の輸出に占める割合は50 %強にもなり、製造工業生産額に占める割合は40 %強となっており、産業の担い手の役割を務めていた。 明治の初頭、国は工業を盛んにするため、官営の工場を経営していたが政府にとっては財政の負担であったことに加え、政府が工場の経営をすると、民間の工場の仕事をうばって民間企業の経営に影響することもあり、政府は、その後、官営工場を1880 年代に民間に払い下げをしている。 殖産興業政策の進展する中、特定の民間事業家が特権的地位を与えられ、政商と呼ばれた。官営工場や直轄鉱山の払い下げをうけた会社が、三井、三菱、古河などの大会社であり、特権的地位を有しており、やがて財閥と呼ばれる企業形態に変化を遂げる。 そして1914年に第一次世界大戦が勃発すると、これまで“ 世界の工場”としての役割を果たしてきた欧州が戦場となり、物資の供給が滞り、この影響で、日本に大量の注文が舞い込み、日本の産業は一気に進むことになる。1-2 明治初期の技術移転 近代工業を育成するにあたって、殖産興業は欧米からの技術移転により推進することに重点が置かれた。お雇いの外国人技術者を日本に招聘して、技術移転を促進する方式が取られた。 お雇い外国人は元々開国後に江戸幕府や各藩が直轄の軍事工場等の能力増強のために取った方法であり、維新後は中央政府のみならず地方政府や私企業にも雇用されるようになり、その数は1875 年がピークであった。 江戸時代末期は藩から、維新後は文部省などから欧米諸国に派遣された初期留学生は、帰国後は官庁や民間企業の上級技術者となり、お雇い外国人の帰国後の技術導入の役割を担った。 工学教育に大きな役割を果したのは、1871年設立の工学寮に起源をもつ工部大学校(現在の東京大学工学部の前身)で、工部大学校の学生は、欧米で体系化されたばかりの工学の知識を習得し、卒業後は工部省等の官庁や財閥企業の技師となって活躍することになる。 一方、能力はあっても大学に進学するほど経済的余裕のない学生は、中学卒業後に高等工業学校に進学するケースが多かった。 東京職工学校、大阪工業学校は1903年の専門学校令による高等工業学校となり、民間企業の基幹技術者を多く輩出した。 1910 年代になると、大学卒と高等工業学校卒の雇用者数は逆転し、高等工業学校は技術者の量的供給という面で大きく貢献した。 お雇い外国人の帰国後、技術の担い手となったのはこれらの初期留学生、大学卒業者、高等工業学校卒業者達であった。1)2.工業化の進展 日本の工業化は、1880 年代半ばから20 世紀初頭にかけて始まったといわれ、繊維産業を中心に、軽工業から工業が進展した。 綿糸から綿織物を生産する織物績業では1882年の大阪紡績会社の創業を皮切りに、大型輸入機械を導入した近代的な綿紡績工場が次々と開業し、飛躍的に生産量が増加した。 その結果、1890 年に国内生産量が輸入量をはじめて上回った。繭から生糸を生産する製糸業においても、器械の導入が進み、1894 年に器械製糸が座繰製糸を上回った。綿花から綿糸を生産する紡績業も発達した。 1897 年には、綿糸輸出額が輸入額を上回った年でもある。イギリスから輸入した紡績機をもとに、生糸を生産し、主にアメリカむけに輸出していた。イギリスの紡績機は、蒸気機関を動力として用いる最新の紡績機だった。日本でも、輸入した紡績機を改良して使用していった。 1894~1895 年の日清戦争後は、清や韓国にも、日本産の綿糸が輸出された。原料の綿などは、併合した朝鮮や獲得した満州などから安い値段のものが輸入され、そのため日本の農家は打撃を受けた。 その後、1904~1905 年の日露戦争を経て、日露戦争後には、日本が世界一の生糸輸出国になった。 このように生糸や綿製品は、日本の主要な輸出品になっていった。そして繊維工業を中心に、日本の軽工業は発展していった。農村では、生糸の生産のため、養蚕が盛んになった。 陸運と海運の整備を実施するとともに、軽工業から重工業への転換を図っていき、鉱工業が発達していく。 絹・絹織物産業の全盛時代は手工業であり、重工業の発展は軽工業より遅れを取ったが、約30 年後の1901 年、日清戦争で得た賠償金をもとに官営の八幡製鉄所が建設され、日本最初の高炉が完成し、鉄鋼産業が始まった。この高炉(写真1)は1972年までの71 年間稼働した。 1901 年に官営八幡製鉄所が設立された後、1907年には日本製鋼所が創業し、以降、??石製鉄所など民間の製鉄所の設立が相次ぎ、重工業の基礎となる鉄鋼の国内生産が本格的に行われるようになった。1)特定非営利活動法人 日本環境技術推進機構 青木 正光